

板橋区高島平というまちで生まれ育ちました。
父は精密部品を作る職人、母は結婚を機に仕事を辞め、私を出産。4年後には弟が生まれました。
私は、幼いころから何にでも興味を持ち、「とにかくやってみる」が口ぐせの子どもでした。
高いところから飛び降りてしまうなど、好奇心旺盛すぎてケガが絶えない毎日。
そんな天真爛漫な幼少期を過ごしていました。

中学生のころから、皆と同じようにすることが面白く感じられず、なぜか人と違うことをやってみたくなる性格でした。
幼少期より培われてきた「とにかくやってみる」精神から、学級委員や部活動の部長なども務めてきました。
周りから頼られることも多くありましたが、人のために動くことの喜びを感じる一方で、
人との関わりの難しさを感じることもありました。
その経験の中で、物事を自分で選びその結果にも責任を持つ、
「自己決定・自己責任」という考え方のもと行動するようになりました。

日本トップレベルに近づきたい。
その思いから、当時大学日本一の実績を持つテニス部に入るため、亜細亜大学へ進学しました。
厳しい練習と管理された生活の中で、テニスに明け暮れる日々。
その経験を通して、目標に向かって全力で挑戦すること、そして勝負の世界の厳しさを学びました。

大学卒業後すぐに、介護事業所の立ち上げに関わりました。
その中で、家のかたちや家族のかたちは、本当にさまざまであることを知りました。
また、初めて社会的に弱い立場に置かれている方々とも深く関わるようになりました。
あたたかく家族に囲まれ、豊かな老後を過ごしている方がいる一方で、
そうではない状況の方もいらっしゃることを、身をもって知ることになりました。
25歳のとき、両親と共に長野県安曇野市へ移住。
そのころから父の仕事に興味を持つようになり、ものづくりの世界にも関わるようになりました。
AIBO の製造や修理に携わる仕事に就き、精密なものづくりの現場も経験しました。
27歳のとき、日向市出身の方とのご縁があり結婚。宮崎県へ移住しました。
縁もゆかりもない土地で孤独を感じることもありましたが、
地域の方々に支えられながらこの地で出産も経験しました。
初めての子育てには大きな不安もありましたが、日向の人のあたたかさに何度も何度も助けられました。
このまちで暮らし、子どもを育てる中で、
日向というまちへの愛着と深い感謝の気持ちが生まれていきました。
子どもが生まれ、毎日が初めての連続でした。
自分のペースで生活を送れないことへのもどかしさ、思うようにできない自分に落ち込み自己嫌悪に陥ることもありました。
そのような中、息子6歳のとき、保育園の先生から声をかけられたことがありました。
「子どもの成長や発達には、一人ひとり違いがある」ということ。
これまで知らなかった世界を少しずつ知るようになりました。
この子の母にならなければ、分からなかったことをたくさん教えてもらいました。

結婚して10年が経つころ、離婚を経験しました。
そのとき、母は私を支えるため、長野県から移住し、一緒に暮らすようになりました。
母はいつも前向きで、どんなときも学ぶことをやめない人でした。
その姿から、私は多くのことを学びました。
令和7年、母は他界しましたが、最後に残してくれたこの言葉は、これからの私の道しるべとなっています。
『狭き門より入れ。
滅びに至る門は大きく、その路は広く、これより入る者多し。
いのちに至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者なし。』

縁もゆかりもなかったこの日向の地で、私は多くの人に支えられてきました。
子育ての不安に寄り添ってくれた人、ともに悩み、ともに乗り越えてきた地域の仲間。
その一つひとつの出会いと支えが、今の私をつくっています。
だからこそ今度は、私がこのまちの力になりたい。
人と人が支え合い、誰もが安心して暮らせる地域をつくるために、
これまでの経験を生かして歩んでいきたいと考えています。
このまちで生きる一人として、日向に恩返しをしていきたい。
夏休み旅行🌻

友達と味噌作り










